いよいよ、来年1月8日(日)よりNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の放送がスタート。いったいどんな物語なのか気になっている人も多いと思います。大河ドラマを観る前に知っておきたい井伊谷の歴史と直虎について基礎知識を掲載します!
遠州の古刹・井伊直虎が眠る寺「龍潭寺」。天平5年(733)、行基によって創建された。井伊家歴代当主を祀る菩提寺でもある。日本最古の印刷本「金沢文庫」や織田信長の遺品「天目茶碗」、江戸時代の庶民の様子が描かれた「龍潭寺屏風」など貴重な寺宝を有する寺として有名。小堀遠州による池泉鑑賞式庭園は国の名勝に指定されている。
井伊家存亡の危機
井伊谷における井伊家の動向が具体的に資料に現れるのは、永正8年(1511)以降、直政の曾祖父直平の時代からである。直平は井伊家初代井伊共保から数え第20代となる。今川氏との関係はかならずしも良好とはいえず、天文5年(1536)今川氏と和睦、今川義元に出仕することになる。
「直虎をめぐる 井伊家家系図」中の関口刑部親永(義弘)の妻となっている「女」は、今川義元に直平が臣従するときに人質として送られた娘であり、最初義元の側室となった。その後、娘は家臣の関口親永に嫁ぎ子を産んだ。親永と直平の娘の間に生まれたのが徳川家康の正室となる瀬名姫(築山御前)である。
直平には、直宗、南渓和尚、直満、直義、直元の5人の息子がいた。家督は直宗、直宗の息子直盛、直満の息子直親へと継がれていく。直元は天文10年(1541)病死、直宗は天文11年(1552)戦死、直満・直義は今川義元によって誅殺されている。
直盛には一人娘しかおらず、「叔父直満の子直親(幼名亀之丞)を養子に迎えようとしたのを小野和泉守が嫌い「直満・直義兄弟逆意あり」と訴え、その訴えを受けた今川義元が直満・直義兄弟を召喚し、二人は殺され。(中略)結局、直満・直義が誅殺されたことで、直盛が養子にと考えていた直満の子亀之丞にも身の危険が迫り、龍潭寺の南渓和尚のはからいで、信州の市田(長野県下伊那郡高森町)の松源寺に逃がしている。直盛は、自分の一人娘とこの亀之丞を結婚させ、婿養子として家督をつがせようとしていたわけであるが、亀之丞の信州落ちでその話はご破算となり、このとき、世をはかなんだ一人娘は出家してしまったという」(『湖の雄 井伊氏~浜名湖北から近江へ、井伊一族の実像~』辰巳和弘 ・ 小和田哲男 ・ 八木洋行 共著 2014年)。
亀之丞を信州へ落ちのびさせたことは井伊家の極一部の者だけが知る極秘事項だった。このとき、出家した直盛の一人娘が後の次郎法師(直虎)、9歳のことだった。
そして10年が過ぎた天文23年(1554)、井伊家筆頭家老の小野和泉守が亡くなり、弘治元年(1555)、亀之丞は井伊谷に帰国し、正式に直盛の養子となり直親と名乗った。許婚は既に出家しており、奥山朝利の娘と結婚することになった。
永禄3年(1560)、直盛は桶狭間の戦いで今川義元と行動を共にし戦死。翌年、直盛亡きあと井伊家の惣領となった直親の子として井伊直政は誕生する。幼名は虎松。
しかしまたしても、小野和泉守の息子、小野但馬守は、今川義元の後を継いだ氏真に「直親が松平元康と結んで某反をおこそうとしている」と訴えたのである。永禄5年(1562)、直親は、申し開きのため駿府に向かうが途中、今川配下の掛川城主朝比奈泰朝により殺害される。遺された虎松は、今川氏らの追跡から逃れるため、各地を転々としなければならなかった。更に翌年永禄6年(1563)、85歳となっていた直平は天野攻めの最中に没す(毒殺されたとの説もある)。
天文5年(1536)今川氏と和睦して以来、30年ほどの間に、井伊家を継ぐ者は、わずか4歳の遺児虎松のみとなった。ここで、出家した直盛の一人娘次郎法師、直虎が登場する。
次郎法師、直虎を名乗る
彦根の龍潭寺にある新野左馬助親矩の墓
直親が殺された以上、虎松とて安全ではなく、新野左馬助親矩(今川氏の家臣・井伊氏縁戚)に引き取られ、匿われることになった。ところが、永禄7年(1564)引馬城主の飯尾豊前守連龍が今川氏真に謀反をおこし、氏真の命を受けて新野親矩が出陣し、戦死。しかもこの戦いで、井伊氏の家老で、虎松の後見役も務めていた中野信濃守も戦死し、井伊家を支えていた者たちを次々に失うことになった。虎松は一族の奥山六左衛門に伴われ、三河の鳳来寺に難を避けることとなり、当主不在という井伊家存亡の危機が訪れる。
永禄8年(1565)、井伊直平の子で龍潭寺の南渓和尚が危機に直面し考えたのが、「女性地頭」であった。出家していた直盛の娘、次郎法師に井伊氏の家督を継がせ、虎松が成長するまでの「中継ぎ」にしようというのだ。「次郎法師は女にこそあれ、井伊家惣領に生まれ候間」という文言は、『井伊家伝記』に記されている。
次郎法師は直虎と名を変え、虎松が家督を継ぐまで井伊家の当主としての役目を果たすことになる。永禄11年(1568)、「次郎直虎」という署名のある文書が残っている。次郎法師という男の出家名、或いは、直虎と名乗ることによって、あたかも男として領国を治めていったのだ。
虎松、家康と出会う
永禄11年に三河(現愛知県)の徳川家康が遠江へ勢力を拡大し、井伊谷に侵攻。小野氏を攻めて追い払い、永禄12年(1569)、なおも追跡してこれを滅ぼした。井伊谷は家康の勢力下に置かれることになった。天正3年(1575)、虎松15歳のとき、家康と対面する。
この対面について、『新修彦根市史』は次のように記している。「養父と南渓の計らいにより家康が城下で鷹狩り中に直政を路辺で「御覧」になった」(『寛永諸家系図伝』)、「対面に先立ち井伊谷の次郎法師が直政のために衣装を調えて贈ったとする説もあり」(井伊谷龍潭寺文書『井伊家伝記』)。井伊谷において存亡の危機に、井伊家一族により計画された出会いであったに違いない。
この時、家康は、虎松が家康に内通したことで誅殺された直親の子であることを知り、名を万千代と改めさせ、井伊の姓に復することを許した。また、家康と築山御前との縁も大きく関わっていたに違いない。以来、直政の快進撃が始まる。
井伊次郎直虎は永禄8年から直政を世に出すまでの10年の間、井伊谷を治め虎松を守りながら生きたのである。天正10年(1582)8月26日直虎は龍潭寺で没する。
『井伊家十四代と直虎』には、直虎から始まる井伊家の歴史が記されている。是非、ご一読あれ。
井伊家歴代墓所。天正10年(1582)8月26日、井伊次郎直虎没。直虎の墓は直親の隣にある(写真左より、井伊直政・直親夫人・直親・直虎・直盛夫人の墓)
井伊家の始祖、共保公出生の井戸。井戸のかたわらに橘の一果がある。 井伊直虎が、大河ドラマの主人公として注目を集めなければ、この井戸と橘に気づかない人がほとんどだろう。